QUEBEC GUIDE SERVICE    ケベックの歴史

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ケベックへ最初に誰が来たの?


クリストファーコロンブスは、イタリアのジェノヴァ出身の探検家・航海者・商人でした。大航海時代、最初にアメリカ海域へ到達したヨーロッパ人です。

彼が1492年に「アメリカ大陸を発見!」しましたが、スペイン国王からの支援を得るまでは、大変な苦労の連続だったようです。大航海には莫大なお金が必要なので、英国、フランス、ポルトガルの各国王と会おうとしましたが、いずれも上手くゆきませんでした。2年もの工作の末、スペイン王に会う事が出来たようですが、支援の確約を取り付けるのに、更に6年もの歳月が必要でした。

1492年8月3日とうとう出航に出る事が出来ました。そして3ヶ月後の10月12日セントラルバハマスの小さな島に上陸する事ができました。

上陸した島は、サン・サルバドル島サマナ島と言う説もある)と名づけられました。これがコロンブスによる新大陸の発見となるのです。それは、スペイン帝国のアメリカ植民の始まりとなるのでした。彼は、先住民を「ロスインディオス」と呼び「死ぬまで自分は中国大陸の東岸に近い所にいるものだ」と信じていたようです。


では、カナダの最初の発見者は誰か?


それはジョンガボットです。

ベニスの不動産屋でしたが、1499年スペインと勢力的に拮抗する大英帝国に雇われて『新大陸』の為に、派遣されました。しかしカボットは今のニュ−ファンドランドに立ち寄っただけで終わってしまいました。イギリスがバージニアのジェームズタウンに定住地を決め、植民を開始したのはスペインに遅れる事1世紀以上の1607年のことでした。

しかも国王の主導ではなくて、民間投資であったといわれます。

ロンドンの南バージニア会社

16世紀中頃と言えばスペイン、ポルトガルは既にアジアまでの航路を開拓し貿易が始まっておりました。アジア、アフリカ、南北アメリカはこの2つの国に完全に制覇されていました。またこの新たに生まれた海外領土を2国で分割する事を法皇庁が教書でもって認可していました。遅れをとっていたフランスは「北回りで大平洋を渡る航路」(*中国までの最短ルートの発見)を探す目的の他に、既にメキシコで見つかっていた「金」や「ダイヤモンド」等の貴金属(財宝)探し、更には東洋で採れると信じられていた香料を見つける事であったと言われます。


そして、ケベックには、フランス人探検家 JackCartie です。

先住民のイロコワ族2名(ガスペから乗り込む)による水先案内人を従えて、総勢110人の探検隊と供に、それぞれ大きさの違う 大、中、小、三隻の帆船に乗りこみ、ケベックに辿り着きます。それは、長い冬が終わる1535年(天文4年)5月の事でした。 当時、この辺りはストラダコナ(Stradacona)と呼ばれ、モントリオールは、オシュラガ(Hochelaga)と呼ばれていました。セントローレンス川沿いには、約2000人の先住民がおり、そのうちケベック周辺には500人程度が暮らしていたようです。当時のフランス王であるフランソワ1世の為に、この地を「新フランス」(La Nouvelle Francaise)と宣言します。実は、最初の航海は前年に当たる1534年の事でした。セントローレンス河口のガスペ半島突端に、30フィート(約3m60cm)の十字架を立て、フランス王朝を表す3つの百合の花よりなる楯型の紋地(旗)を掲げ、この地が「新国家フランス(ヌーベルフランス)である」と、高らかに宣言しています。ジャックカルテイエは、合計3回もこの地を訪れています。1534年には、ガスペまで60人を引き連れ4月から9月までの滞在しており、2回目は1535年、今のケベックで7月まで滞在しています。そして3回目の1541年には、5隻の帆船でモントリオール付近までやってきたようです。この同じ年、日本の豊後にポルトガル船が漂着しています。


ヌーヴェルフランス時代到来

1608年(慶長13年)、ジャックカルテイエからの報告を受けてフランスは新しい国家建設[ヌーベルフランス計画]のためにサミュエルドシャンプレーンを派遣します。

 彼の銅像は、シャトーフロントナックホテル前のテラスデユフランに建立されています。本格的な毛皮(ビーバーが主体)の交易所を開設し、新国家フランスの基礎構築が本格的に始まります。

下のスケッチは、アビタシオン(シャンプレインの住宅及び要塞)です。現在の王様の広場(Place Royal)です。アッパータウンには、カソリックの教会、その関連施設と官吏等の建物が立ち始め、ロウワータウンの川沿いには職人や商人が住むようになりました。ここで、先住民族族との毛皮の取引が行なわれていました。



山高帽:ヨーロッパに渡ったビーバーの毛皮は、
堅く加工したフェルト製の帽子になりました。

ケベックの毛皮は、光沢があって、とても上質でした。 


北米大陸(ヌーベルフランス)に夢を抱いて、入植者が続々と雪崩れ込んで来て新フランスにおける経済、宗教、政治の要となります。

しかし、17、18世紀になると先住民やイギリスとの間にいざこざが絶えませんでした。


繰り返される植民地戦争


本国フランスでの戦争の影響を受け、度々戦争に巻き込まれてしまいます。この街は93mの高さを持つダイヤモンド岬に位置する為(ニューヨークのマンハッタン島のように細長い丘状で、その先端に要塞が造られてゆくのです。)に戦略的には攻めるのが難しいとされていました。ケベックが「カナダのジブラルダル」と呼ばれて来たのも頷けます。そのケベックが過去に6回も包囲されたことがあったのです。

最後の英仏戦争


 戦場公園は、芝生と森で見事に整備された100ヘクタールほどの公園です。ケベック市民の憩いの場所です。元は「アブラハム平原」という畑と放牧地でした。アブラハムという男は、17世紀にフランス人船団の水先案内人としての功績を認められ、この土地を与えられたアブラハムマルタンに由来します。 この場所で歴史的な「イギリスとフランスの最後の戦い」が、行われたのです。

1759年9月3日 ジェームズ・ウルフ 率いるイギリス軍は、まずセントローレンス河から攻め寄せました。イギリスの陸軍士官であったウルフ将軍は。カナダでフランス軍に勝利し同地におけるイギリスの支配の確立に貢献した功により知られます。

度々のパリへの出張の結果フランス語にも熟達したようです。ウルフは、1758年その2年前に勃発した七年戦争に参加するべく北米(ケベック)へ派遣されたのでした。

ウルフ等は、断崖にそそり立つ要塞都市ケベックを攻め倦ねていました。9月12日闇夜に紛れ、唯一上陸可能と思われた地点から上陸を敢行します。後にそこは「ウルフの入り江」(スケッチ左下)と呼ばれる傾斜の緩やかな崖でした。

運命の日:1759年9月13日

平原で陣容を整えたウルフ将軍率いるイギリス軍は、早朝の奇襲攻撃に出ました。そして9月13日早朝、勇将モンカルム公爵率いるフランス側が裏側に敵(イギリス軍)を発見、城壁の守りを固めるよりも果敢な突撃戦を選び手勢をくり出して攻撃を仕掛けたのでしたが、これが仇となり呆気なく負けてしまいました。

わずか15分の短い戦でしたが、両将軍の命と引き換えに、ようやくここに平和が訪れたのです。実際には、モンカルは深手を負って翌朝亡くなってます。(*赤=英軍、青=仏軍)

後に、この英仏戦が繰り広げられた場所に、リンドバーグが降り立った事があります。


米英戦争「ケベック侵攻作戦」

1775年12月31日の午前4時、アメリカ独立軍による「ケベック侵攻作戦」が展開されます。

ベネディクトアーノルド将軍は、自分の部隊を2手に分けました。アーノルド将軍が総勢600名を率き連れて町の北側(現在の文明博物館裏手)を攻撃し、モントゴメリーは300名の部隊で南側を(シャンプレイン通り/ダイヤモンド岬展望台下付近)を攻撃しました。2つの攻撃部隊はセントローレンス川に接する1点で落ち合い、そこから防壁の中へ突入する手筈だったのです。


しかし、防御は非常に堅く力押しでは落ちなかった上、夜明け前に吹雪がはじまっていました。

モントゴメリーの部隊は川沿いにケープダイアモンド稜堡の下を進んでいたようですが、30名のカナダ人民兵が籠もるバリケードに出くわしてしまいます。戦端が開かれ、最初の一斉射撃でモントゴメリーが殺されてしまい他にも多くが死傷しました。大陸軍は吹雪の中では使えないマスケット銃しか持っていなかったので、反撃もうまくいかないまま川岸を退却しました。



アーノルドはモントゴメリーの戦死と攻撃失敗を知らないまま、北側のバリケードに向かったのですが、町の防壁を守るイギリス軍と民兵の反撃を受けます。ソルト・オ・マテローという名の通りにある道路バリケードで、アーノルドはマスケット銃の弾を左くるぶしに被弾し後方に搬送されました。アーノルドに代わり副官のダニエル・モーガンが指揮を執ってこの道路バリケードを突破しました。しかし次の命令を待つ間に、大陸軍は通りや近くの家の中の民兵の攻撃にさらされ、イギリス軍の反撃でバリケードが再度奪取された事で、モーガンと彼の部下が狭い通りに孤立してしまい、とうとうモーガン部隊は降伏してしまいました。10時までにモーガン以外にも町に取り残されていた部隊が降伏し全ての戦闘が終わりました。

この戦闘でアーノルドの部隊は30名以上が死亡し(他にも春の雪解け後に20名以上が発見され、凍結した川を越えて逃げる間に数名が溺れました。)モーガン以下426名が捕虜となっています。モントゴメリーの部隊では少なくとも12名が南の川岸で死傷しました。一方、イギリス軍の被害は、指揮官であるガイ・カールトン総督によると、海軍士官1名とフランス系カナダ人民兵5名の死亡、正規軍兵士4名と民兵15名の負傷でした。

アーノルドは、兵力比が3対1になってもまだケベック包囲を続けたのですが年明の1月1日に兵役期間が終わった志願兵の大量脱走が発生してしまいます。3月にジョン・トーマス将軍に率いられた大陸軍の援軍が到着し、総勢は2,000名まで回復したのですが、この大陸軍がケベックシティに新たな攻撃ができない内に、5月6日今度はイギリス軍に8,000名以上の援軍が到着してしまい、大陸軍は包囲を解いてニューヨーク植民地に撤退してしまったのです。



イギリス統治から「静なる革命」そして現代へ

「独立宣言」が採択されると、その影響で多くのロイヤリスト(イギリスに忠誠を誓う王党派)が今のカナダ側に逃げ込んできました。主にノヴァスコシア等への再移住が多かったと言われます。また、此の時期に入植した人々によって「イースタンタウンシップ地域」が開拓されていきました。


1791年:「イギリス議会」においてオタワ川の西側をアッパーカナダ(オンタリオ)東側を、ロウワーカナダ(ケベック)と定め別の代議制度を持つ事となりました。


1812年:アメリカがイギリスに「宣戦布告」します。(〜1814年まで続く)しかし英国正規軍やカナダ義勇軍に阻まれてしまいます。「ナポレオン戦争」終結によって英国がカナダに大軍を送り込めるようになり戦争は膠着状態となり終結しました。


1837年:マッケンジー(オンタリオ)とパピノー(ケベック)で反乱が起こり「臨時政府」の樹立を要求しました。翌年(1938年)ダーラム卿を英国領カナダの総督に任命して対策を研究させ報告書を提出させました。


1839年:英国のダールム卿はオンタリオとケベックの両カナダを統合し本国イギリスに政治的独立を勧告します。1840年には「連合法」によって両カナダ植民地を合わせて『連合カナダ植民地』とする事を決めました。


1841年:「連合法」(イギリス議会にて)が可決され「連合カナダ」が誕生します。首都はキングストンに置かれます。カナダイ-スト(オンタリオ)、カナダウエスト(ケベック)と呼ばれます。


1846年:北緯49度をアメリカとの国境に定めました。

1848年:ノヴァスコシア州に責任政府が置かれます。

1850年:移民が飛躍的に増加して全カナダの植民地で250万人となります。

1861年:アメリカで「南北戦争」勃発

1864年:9月プリンスエドワ-ド島に於いて初の「イギリス領北アメリカ植民地代表連合会議」が開かれます。ニューズブランズウイック、ノヴァスコシア、プリンスエドワードの大西洋沿岸の3州と連合カナダ(オンタリオ&ケベック)の代表が集まった。


1864年:10月には場所をケベックに移して更にニューファンドランドが参加して「カナダ連邦結成」の為の「七十二カ条のケベック決議」を採択しました。


この栄えある連邦結成の会議の出席者は33名で「建国の父祖」或いは「カナダ連邦の父」とも呼ばれます。(ノートルダム大聖堂裏のモンモランシー公園にその記念すべき旧議事堂がありました。今のカナダが誕生した場にあたるので是非見て下さい。)






1867年:7月1日カナダ連邦結成

詳しくは「英国領北アメリカ法」の形で起草され英国議会の承認を得て成立しました。これが「ドミニオンカナダ」(自治領カナダ連邦)の誕生です。この時点ではまだプリンスエドワードとニューファンドランドは連邦に加盟しませんでした。連合カナダのオンタリオとケベックを分離して、ノヴァスコシアとニューブランズウイックの「4つのプロヴァンス」と呼ばれる州で構成しました。

初代の首相には『ジョンマクドナルド』が任命されました。

長い間イギリスの配下に置かれてきたフランス人達も、やっと自分達の手に、この国を取り戻そうと立ち上がります。これまでのように一部のイギリス側と結託した商人や、従順な信者でいてほしいと考える宗教家の思い通りにはいかなくなります。まず始めに取りかかったのは、教育省の設立でした。長い間教育の主導権を宗教家(*カソリック)側に握られていたので、やっとの思いで、子供達への教育システムを自分達の手に取り戻したのでした。つまり、それまではフランス系住民に対しては「従順で日曜に教会行く農民」の域を抜け出ない労働者階級のままにしておきたかった彼等の思惑が『静かなる革命』を機に大きな転換を迎えます。


1960年、流血事件もなく民主的に「選挙」によって改革は行われました。イギリス系のユニオンナショナルが惨敗してしまいます。


1963年「ケベック開放戦線」(*FLQと呼びます)という過激なグル-プが「議員誘拐事件」や「ウルフ将軍記念碑爆破事件」をひき起こします。


1970年には戦時措置法さえ発令した「10月の危機」とよばれる緊張した時代もありました。こうした事もあり改革は急速に進みこれまでの鬱積が吐き出されるような勢いでした。ただあまりにもフランス語系住民よりの政策によって嫌気をさしてケベックを離れる人も多くでてきます。


1977年「社員数50人以上の会社は今後すべてフランス語による業務を行わなければならぬ。」等と一方的に議会でフランス語を強制するような法案(フランス語憲章)法令101号が可決されるや、3年間のうちに英国系企業600社以上の会社、工場はこの地からトロントやヴァンクーヴァー、カルガリー等へ移転してしまいました。今日までその数実に30万人以上と云われます。カナダ史上最大級の移民現象となりました。余りにも片寄った政策を取り続ける為に外国資本の導入が困難な状況で、特に「カナダ連邦からの分離独立問題」は企業にとってリスクが大きいと判断されています。


1982年4月:エリザベス女王はオタワの連邦議事堂で新憲法とも言うべき「憲法条例」の署名を行い「英連邦北アメリカ法」を修正し一つにまとめ上げ、新たに「権利と自由の憲章」が明文化されました。これにより植民地時代の名残りを無くし法律的にも完全独立国となりました。


*2014年4月8日のケベック州議会選挙結果について

ケベック自由党70議席(41.4%)、ケベック党30議席(25.4%)、ケベック未来連合32議席(23.35%)、ケベック連帯3議席(7.4%)(定数125議席、括弧内は得票率)という結果となり、自由党のフィリップ・クイヤール党首が次の首相に就任することが決まった。


選挙結果(カッコの数字は選挙前の議席数)

ケベック自由党 (PLQ) =70議席(49議席)

ケベック党 (PQ) =30議席(54議席

ケベック未来連合党 =22議席(18議席)

ケベック連帯党 (QS) =3議席(2議席)

無所属=2議席(定数:125議席)


Je me souviens=『私は忘れない。』


これはケベック人の連帯感を表すもので、ルーツである「フランスの文化、芸術、言語、宗教、などを忘れない。」又先祖が苦労して築いた「この土地の歴史について忘れない。」更には、イギリスに追い込められていた時に、助けに来なかった本国「フランスの無情を忘れない!」という意味もあるようです。しかし本当のところは,開拓の父シャンプレインが、この恵まれた土地を眺めて発した賛嘆の言葉「神の賜物を無にはしまい。(私は忘れない。)」から生まれたモットーのようです。この言葉(モットー)は、ケベック州に登録されるどの車のナンバープレートに見る事ができます。


 
 
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